宝永年間(1704~1711年)、水戸藩が財政改革のため、松並勘十郎を起用し、江戸との水路として、鹿島灘・涸沼川・巴川の連絡を図って運河を掘りましたが失敗に帰しました。大貫地内1キロメートル強の運河は数回にわたって埋め立てられ、現在は涸沼川に接するわずかな部分のみ残っています。